日本を一本の糸でつないだ商人たち―北前船・近江商人と、この地に根づいた商いの物語
このブログは「土地と旅路が交わる商い——ココに根づいた商いの歴史を探る」シリーズの第一回です。歴史の話が苦手な方も、どうぞ気軽に読んでみてください。
📝 このシリーズの読み方について
この記事の内容は、AIのディープリサーチ機能などを活用して調べた情報をもとに書いています。いわば**「AIが導き出した仮説」**として読んでいただけると幸いです。
歴史的な解釈や地域ごとの詳細については、実際とは異なる部分が含まれている可能性があります。今後、現地での調査や資料の確認を通じて「仮説が合っていた」「実はこうだった」という検証結果を、別の記事として投稿していく予定です。
「ここが違う」「こんな資料がある」といった情報をお持ちの方は、ぜひコメントやSNSでお知らせください。
はじめに:「経済」という見えない動脈
江戸時代というと、どんなイメージを持ちますか?
鎖国、侍、お城……そんな言葉が浮かぶかもしれません。でも実は、この時代の日本は経済的にものすごくダイナミックに動いていたようです。北海道から九州まで、日本列島を縦横に走る「お金とモノの流れ」があり、その中心にいたと言われているのが**北前船(きたまえぶね)と近江商人(おうみしょうにん)**です。
難しそうに聞こえるかもしれませんが、ひとことで言えば「すごい商人たち」の話です。そして彼らの活動は、遠く桜川エリアにも何らかの足跡を残していると考えられています。
北前船とは何か?「動く商社」が海を走った
普通の運送業じゃなかった
まず北前船について。これは江戸時代から明治にかけて、主に日本海を航行した商船のことです。
「船で荷物を運ぶ」だけなら、今でいうトラック輸送みたいなもの。でも北前船は違ったと言われています。
普通の運送船は「お客さんの荷物を運んで、運賃をもらう」ビジネスです。ところが北前船の多くは**「買積(かいづみ)」という方式をとっていたとされています。船主が自分でお金を出して商品を買い、寄港地ごとに売り買いを繰り返しながら利益を積み上げていく。つまり船ごと動く商社、あるいは「海を走る投資家」**のような存在だったようです。
一航海で1億円?
当時の記録をもとにした試算によれば、うまくいけば一往復の航海で現在の価値にして約1億円もの利益を上げることがあったとも言われています(換算方法によって異なります)。
どうやってそんな利益が出るのか。答えは「地域ごとの価格差」です。
北海道(当時は「蝦夷地」)では大量のニシンが捕れますが、本州では手に入りにくい。一方、関西の織物や日用品は北海道では貴重品。北前船はこの価格の差を利用し、安く仕入れて高く売ることを繰り返していたと考えられています。
こうして日本全国のモノとお金が動き、「全国規模の市場」が少しずつ形成されていったのでしょう。
ニシンかすが農業を変えた
北前船が運んだものの中で、特に重要だったとされているのが**「鰊粕(にしんかす)」**です。
ニシンをしぼって油を取ったあとのカス……と聞くと地味ですが、これが農業に大きな変化をもたらしたと言われています。
「金肥(きんぴ)」と呼ばれた理由
江戸時代の農家は、自分の田畑の近くで調達できる堆肥や草を肥料にしていました。しかし鰊粕は、それらとは比べ物にならないほど肥料の効きが良かったとされています。
お金を出して買う肥料なので「金肥(きんぴ)」と呼ばれましたが、それだけの価値があったようです。鰊粕を使うことで、綿花・藍・菜種などの「換金作物(売るために育てる農産物)」の収穫量が増えたと考えられています。
農家が「食べるためだけに農業をする」時代から、「売るために農業をする」時代へ——。この変化が、後の日本の工業化・近代化を支える基礎のひとつになったとも言われています。
近江商人とは誰か?「三方よし」を生きた商人たち
滋賀から全国へ
北前船とともに日本経済を動かしたと言われるもう一方の主役が、近江商人です。
近江(現在の滋賀県)という内陸の地に生まれながら、彼らは全国各地へ出向いて商売を行ったとされています。北海道から九州まで、あちこちに「出店(たな)」と呼ばれる支店を構え、ネットワークでビジネスを展開する——現代でいえば全国チェーンの元祖のような存在です。
「よそ者」だからこそ生まれた哲学
ただ、地元ではない場所で商売するのは簡単ではありません。「どこから来たかわからない旅の商人」を信用してもらうには、何か特別なものが必要だったはずです。
その答えのひとつが、今も語り継がれる**「三方よし(さんぽうよし)」**という考え方だと言われています。
売り手よし、買い手よし、世間よし
自分(売り手)が儲かるだけでなく、お客さん(買い手)にとっても良い取引であること。そして、地域社会(世間)にとっても良い影響を与えること。この三つが揃って、はじめて本当に良い商売だという哲学です。
これはよそ者として各地で信頼を得るための、合理的な生存戦略でもあったと考えられています。現代的な視点から見れば、企業の社会的責任(CSR)の先駆けとも言えそうです。
北前船と近江商人のつながり
面白いのは、この二つの勢力が無関係ではなかったとされている点です。
近江商人こそが北前船ビジネスを先導したという説があります。近江商人が資本を出し、北海道との交易ルートを開拓した。そして長年にわたってその実務を担い、経験を積んだ船頭たちが、やがて独立して自分たちの北前船を持つようになっていく——という流れです。
ただしこの部分については、地域や時代によって実態は大きく異なる可能性があります。史料や文献をたどりながら、少しずつ紐解いていきたいと思っています。
これまでの話とこのシリーズの立地関係をAIにイラスト化してもらいました。

このシリーズの舞台:筑西市・桜川市・つくば市郊外
ここまで「大きな話」をしてきましたが、このシリーズが実際に掘り下げていきたいのは、筑西市・桜川市・つくば市郊外にまたがるエリアの商いの歴史です。
「歴史の大きな流れ」は、必ずどこかの「地域の日常」に着地します。
まず、ひとつはっきりしていることがあります。桜川市の真壁(まかべ)地区には、近江商人が実際に出店を構えていました。 真壁は古くから栄えた商家町で、近江商人がその流通ネットワークの拠点のひとつとしてこの地を選んでいたことは、史実として確認されています。今も町並みに残る重厚な商家建築が、当時の繁栄をしずかに物語っています。
具体的な例として、現在も真壁で営業を続ける村井醸造と西岡本店の二つがあります。村井醸造は延宝年間(1673〜1680年)、近江日野商人の村井重助が関八州や奥州各地に上方の商品を運ぶ中継地点として真壁に醤油・味噌の店を構えたのが始まりです。これは近江日野商人が関東に出店した最も古い記録とされており、現在の当主は12代目にあたります。西岡本店もまた、天明2年(1782年)に近江日野商人の西岡半右衛門が創業した酒蔵です。二つの老舗がともに近江日野商人を出自に持つという事実は、真壁がいかにこの地域の商業ネットワークの重要な拠点であったかを物語っています。
そして筑西市にも、同じく近江商人を出自に持つ老舗があります。来福酒造です。1716年(享保元年)、近江商人が江戸幕府へお酒を売ることを目的にこの地を訪れたことがきっかけとなり、筑波山麓の良水の地で酒造業を始めたとされています。興味深いのは、来福酒造が「水運の盛んだった利根流域で酒蔵経営に乗り出した近江店(おうみだな)」であるという記録が残っている点です。近江商人が真壁だけでなく、水運を活かして筑西方面にまで商圏を広げていたことを示す、このシリーズにとって重要な手がかりです。
来福酒造のOMI CAFEに来店した時のブログもありますので、是非ご覧ください。

では、その商いの圏はどこまで広がっていたのでしょうか。真壁を起点として、筑西市(旧・下館)方面や、つくば市郊外の集落まで、近江商人の商いのネットワークや、北前船がもたらした物資の流れが及んでいたのかどうか——これはこのシリーズを通じて少しずつ探っていきたい問いです。
この地域一帯は、江戸時代から商業的に大きく栄えていたことが記録に残っています。真壁は大阪・奈良・岡崎から木綿を仕入れ、会津や米沢など東北の商人を集める木綿流通の拠点として、月12回の市が立つ在郷町として繁栄しました。隣接する下館(現・筑西市)もまた、絹織物を扱う商業都市として「関東の大阪」とも呼ばれた街です。では、北前船が運んだ鰊粕のような肥料が、この地の農業や商品作物の栽培にどう影響したのか。近江商人の「三方よし」に根ざした商いの作法が、地域の人々の暮らしや商慣習にどう溶け込んでいったのか。その経済圏がつくば市郊外まで及んでいたのかどうか——これらはまだ確認中の仮説です。
現時点ではこれらの多くは仮説です。史料や文献を紐解きながら、あるいは新たな仮説を立てながら「こうだったのかもしれない」「でも実はこうではなかったか」と探っていく過程を、このブログで随時お伝えしていきます。歴史の教科書ではなく、一緒に考えながら答えを探っていく場所として、このシリーズを続けていきたいと思っています。
まとめ
今回はシリーズの入口として、北前船と近江商人の全体像をAIリサーチをもとにざっくりと紹介しました。まとめもAIに作成してもらっています。

- 北前船は「海を走る商社」として、日本全国の価格差を利用しながらモノとお金を動かしたとされている
- 鰊粕という肥料が農業を変え、商品経済の広がりを後押ししたと考えられている
- 近江商人は全国に支店を持つ「チェーンストアの元祖」として流通網を整備したと言われている
- **「三方よし」**という哲学は、信頼を資本にしたビジネスモデルの先駆けとも言える
- そして筑西市・桜川市・つくば市郊外への影響については——真壁と筑西への出店は事実として確認されており、その商いの広がりがどこまで及んでいたのかをこのシリーズで探っていきます
📌 更新履歴
- 初稿公開(AIリサーチをもとにした仮説として執筆)
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